2012年5月27日日曜日

『ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略』飯田一史


『生徒会の一存』『バカとテストと召喚獣』『とらドラ!』『ゼロの使い魔』『とある魔術の禁書目録』『鋼殻のレギオス』そして『涼宮ハルヒの憂鬱』・・・・・・。 シリーズ累計で数百万部を売り上げ、いまもっとも読者を獲得しているジャンルであるライトノベルから、作品論、メディア論、顧客分析、競争環境分析を駆使して、市場で勝つ戦略までを解き明かす。 Amazonランキングで1位になったライトノベル作品を徹底分析。
 著者はこの本を学術書ではないと述べているし、自分自身でこの本の限界をわかっているだろうから、「Amazonランキングで1位になったライトノベル作品」つまりベストセラー・ライトノベルだけを分析して売れるライトノベルの性質が明らかになるのか、安定して2番手3番手をキープし続けるライトノベルや、ベストセラーにはならずとも作家性によって独自の客層をつかんでいるライトノベルには妥当しないのではないか、という疑問(たとえば本書では川上稔や十文字青などのライトノベル界において極めて重要な作家の小説は一切分析されない)だとか、本書で扱っている作品はそのほとんどがアニメ化した作品であり、つまりメディアミックス作品であって、メディアミックス後に原作の売り上げが伸びるということは著者本人も論じていることであるから、

商業作家としてデビューできるかどうかギリギリのラインの作品が生み出すキャッシュフローを1とすれば、ベストセラー作品は100以上なのだ。(25ページ)
という断言、つまり私なりに短絡化して解釈しなおせば、「最終選考落選作品」みたいなギリギリでデビューできた作品が1万部くらい売れるとしたらベストセラー・ライトノベルは100万部くらい売れるのだというような言い方は、作品論によって分析できる内在的な要素よりも、メディアミックスにより原作小説が拡散されるという外部的な要素のほうが、1万部と100万部の間に横たわる99万部の理由として大きいのではないか、という疑問には答えないし、仮にメディアミックス以前からベストセラー化したライトノベルだけを扱ったのだということなのであれば、本書が大半を費やした作品論が説明するものは、メディアミックス前の、1万部作品と10万部だか20万部だかの「ランキング1位」作品の差を生み出す要素だけであろうし、また外部的な要素に恵まれずベストセラーになれないままでいるがアニメ化さえすればベストセラーとなりうるような<潜在的ベストセラー・ライトノベル>の可能性への考慮が欠けている以上、この本は徹頭徹尾「あとだしじゃんけん」なのであり、売れるラノベの本質を本当に分析できているのかどうかについて疑問が拭えず、私としてはこの本の論理的な正しさや実証的な正しさのようなものは一切判断保留にしてこの本を読んでみたいと思う。「楽しい」「ネタになる」「刺さる」「差別化要因」という四要素と、それが作品論の中でベストセラー・ライトノベルの中にすべて含まれていることを実証していく過程で、個別の作品の「どこが楽しいのか」「どこがネタになるのか」「どこが刺さるのか」「どこが差別化要因なのか」という点を述べるくだりに関して、ほとんど断言調と言っていい粗さがあることを考えると、冒頭にくだくだと紹介された各種の「数字」は目くらましに過ぎないのではとすら思えてくる。しかし、この「粗さ」のみをもってして本書の価値がないとするのは拙速で、確かに本書の論理の運びは粗くはあるがおそらく8割程度は妥当するとみなしてかまわないと感覚的には思うし、この「粗さ」にこそ著者の「ラノベ観」「オタク観」のようなものが如実に表れていると思うし、「売り上げ至上主義」と見間違いしかねない本書の中立的(に見える)スタンスの冷徹さの奥に隠れているある態度をこの「粗さ」から見出すことができるのではないかと私は考えている。ちなみに細かいことではあるが私がもっとも不同意だったのは、
彼らが『ハルヒ』を支持したのは『エヴァ』以降の「セカイ系」に至る流れで理解できるものだったからである。『ハルヒ』の主人公キョンは、何かにつけてウダウダ言って斜にかまえているキャラクターだが、これは『エヴァ』のシンジが消極的な性格だったことから派生したキャラ造形と言える。(254ページ)
という箇所である。 シンジと同じ十四歳にして『エヴァ』に直撃し、大学時代に『ハルヒ』を興奮しながら読んだ、典型的なオタク第三世代の私は、キョンをシンジの系列に連なるキャラクターだとは全く思わなかった。むしろキョンは、みくるに対する性的な憧れを率直に記したり、破天荒なキャラクター達が登場する中では高校一年生にして最も成熟した常識を体現する役回りを与えられている点で、脱シンジ的なキャラクターだと感じたし、どうしても自己の実存を投影して暗いイメージが拭えない『エヴァ』に対して、南国的・アジア的なオプティミズムをすら有しているように感じられる『ハルヒ』を、『エヴァ』とは全く違うものとして私は受け入れていた。そもそも、シンジが本当に消極的な性格なのかどうかについても議論の余地があるように思われる。シンジは場の空気を読もうと頑張る事にかけてはむしろ積極的だったのではないだろうか。また、アスカの挑発に簡単にのせられたり、ミサトから評価されると有頂天になって失敗したり、時には父親を脅したりと、なかなかの激情家とすら言える側面ももっている。とはいえ、このような些細な部分をこまかく論じることはそんなに実りがあるとは思えないし、キョンとシンジを敢えて同じ系列に置くことはそれはそれで価値がないこともないと言えそうなので、これくらいにしておこう。

本書はライトノベルという媒介項を経ることによって世代論、若者論の書としても読めるようになっている。オタク第四世代とは先行する世代に比してライトノベルをよく読むようになった世代であり、そのライトノベルを分析することによってオタク第四世代のメンタリティもある程度わかる、という風に。たとえばそのメンタリティのひとつは、以下のように著者が述べるようなものだ。
オタク第三世代の消費行動を指して東浩紀は「動物化」していると形容したが、第四世代は「動物」というより単に「素直」である。

日本のサブカルチャーは(ヤンキー文化をのぞけば)八〇年代以来の新人類/サブカルにせよ、オタク文化にせよ、それ以前の六〇年代アングラにせよ、おおむね高踏的であったり、シニカルであったり、ようするにひねくれた、スノッブな「違うのわかるひと(原文ママ)」向けの表現を好んできた。極端な抽象(中傷)をすれば、頭はいいが「性格の悪い」斜に構えた人間たちに支持されてきた。
しかし、第四世代オタクは「性格がいい」。第一世代や第二世代の屈折に比べればはるかに「素直」に映る。 
また、第三世代を評した「動物」は、「ニート」「ひきこもり」同様に社会退行的な印象がつきまとう表現だが、『俺妹』の高坂京介や『禁書』の上条当麻を支持する「素直」な第四世代は、家族や仲間、社会のために何かするのがいいという社会意識を素朴にもっているように見える。(280ページ)
 このように、オタク第三世代に比べてオタク第四世代を「擁護」しているの観すらある書き方をする著者は、別の箇所において、SFやミステリとして評価できるようなライトノベルが必ずしも売れない理由について、以下のようにも述べる。
SF小説ならば設定がたくさん必要で、つまり「めんどくさい」「うざい」「重い」と読者に思わせてしまう。ミステリはヒトが次々惨殺されることが「重い」「暗い」「グロい」、または密室トリックや大量の登場人物が「めんどくさい」と感じさせてしまう。つまり書き手が相当に工夫しないと「楽しい」「ネタになる」「刺さる」というライトノベル読者のニーズに響くものにならないからです。(311、312ページ)

著者が、必然的に「めんどくさい」を含まざるを得ないがその分SF的「センス・オブ・ワンダー」やミステリ的「サプライズ」による面白さを含むSF小説やミステリ小説の価値を、ライトノベルに比べて劣るものとみなすのでなければ、ライトノベル読者、そしてその中核をなすオタク第四世代の読者は、相対的にこれらの「めんどくさい」に耐えられない人々なのだということになる。中高生だから「めんどくさい」に耐えられないんだというのは理由にならない。事実、オタク第一世代や第二世代の人々は、中高生時代から、早い人は小学生時代から、ただでさえ「めんどくさい」海外SFや海外ミステリを、さらに「めんどくさい」読みにくい翻訳文で読んでいたということが珍しくない。中高生だろうが小学生だろうが、「めんどくさい」に耐えることはできるのだ。そしてそれを面白いと思うこともできる。

ここで思い出したいのは著者も言及している東浩紀の「動物化」であるが、この東の動物という概念は哲学用語から来ていて、哲学者アレクサンドル・コジェーヴあるいはヘーゲルが人間と動物を分ける枠組みとして、人間を環境否定するもの、動物を環境否定しないもの、と区分したことに由来している。環境否定がどういうものを意味するかはまた難しい問題ではあるが、平たく言えば主体性を持っているかどうかが東の『動ポモ』における重要なポイントであった。性的マイノリティが主体的に自分の特殊なセクシュアリティを受け入れるようには、動物的なオタクたちは自分の二次元的で身体的で即物的なセクシュアリティを受け入れることをしない、という風に東は述べている。オタクがそれをしないのは、端的に「めんどくさい」からだと私は思う。そして、「めんどくさい」から主体性を持たないということは、つまり「めんどくさい」の労を惜しんで環境否定しないということだと考える。

仮に、ライトノベルに親しんだオタク第四世代が、著者の言うように「めんどくさい」を忌避する性質を持つ傾向があるのだとする。著者は第四世代のオタクたちを「素直」であり「家族や仲間、社会のために何かするのがいいという社会意識を素朴にもっているように見える」と述べているが、しかし「めんどくさい」環境否定を回避した上でのライトノベル的「社会意識」は、複雑な社会問題に取り組む上での正しさについていけるだろうか。「斬って燃えて爆発」というような見た目の派手さを社会問題や政治に関する言説においてはもっとも警戒せねばならないはずだ。そして、素朴に家族や仲間や社会のためになにかするのがいいという社会意識は、簡単に特定のイデオロギーやプロパガンダに糾合されやすいメンタリティのことをも意味しうるのではないか。傍目には暴力的な右翼や左翼も、あるいは気味が悪い新興宗教も、当事者の主観としては極めて公正な社会正義に則っているという「社会意識」に基づいているはずだ。そう簡単に社会的な正しさを体現できるものなど存在しないし、社会的な正しさを騙るものを懐疑することこそ本質的な<社会的な正しさ>なのではないだろうか。そして、「めんどくさい」を回避した「社会意識」として私が典型的だと思うのはポピュリズムやボナパルティズムである。

また、著者の設定した「楽しい」「ネタになる」「刺さる」「差別化要因」という基本的な四要素は、実は東の動物化理論の枠を超え出るものではない。東は物語の動物的消費に最適化されたものとしてウェルメイドという言葉を使うが、これは、読者を一定時間飽きさせず、適度に感動させ、適度に考えさせるような物語のことである。一定時間飽きさせないのは「楽しい」あるいは「ネタになる」に対応するし、適度に感動させるのは「刺さる」に対応するし、適度に考えさせるのは「ネタになる」に対応するだろう。また、「差別化要因」とは個々の作品の基本的なオリジナリティのようなものを意味しているに過ぎないから、その作品が既存の作品のパッチワークに過ぎなくとも、そのパッチワーク性を「差別化要因」として解釈することも可能であるから、実質的にいくらでも後付け可能である。あたかも『エヴァ』がそうだったように。その意味で、ベストセラー・ライトノベルは全くウェルメイドな物語(=動物的消費に最適化された物語)の範疇に収まってしまうと思われる。

そして、私の印象として、この本の論理の運び方の「粗さ」は、特に個々の作品の「この部分が読者にとって楽しいんだ」「この部分が読者にとって刺さるんだ」「この部分がネタになるんだ」「この部分が差別化要因なんだ」と言う風に、作品に対する読者の反応を想定していく作業の上に唐突に現れてくるようなのだが、このことは著者がライトノベル読者へのある種の「侮り」のようなものを持っているからだと推測することは不可能ではないと思う。つまり、「これが楽しいに違いない」「これが刺さるに決まってる」という風な独断の上に本文の論述があると見て取れる。

本書は、作品論と世代論を読んでいくと、どうやら東浩紀の「動物化」はオタク第三世代にしか妥当せず、オタク第四世代には別の原理が有効なのだということを示すということが、その意図の一つとしてあるようなのだが、しかし『動ポモ』をもう一度読めば本書がオタク論・世代論としては一歩も『動ポモ』が示した概念を超え出ていないことが明らかになると思われる。それどころか、本書の世代論的なオタク第四世代に関する記述は、オタクがますます動物化していることの証明ででもあるかのようである。逆に言えば、それほどまでに東の動物化理論は我々オタク第三世代の意識を縛っていると考えられる。本書の試み自体は大変斬新で尊いと思うが、実際には東の優越性を自ら示したにとどまってしまったという憾みを抱かざるを得なかった。この本に続いて(あるいは乗り越えて)ライトノベル論とオタク論と社会評論を縫合する新しい時代のサブカル批評家が登場するのを期待する。

ちなみに、ギャグのつもりなのかもしれないが、現実の経営学の理論を物語の世界観や人物たちに当てはめるのは短絡的だ。物語内部の描写が経営学の理論に則っていなくとも、エンタメとして面白くて売れるのであれば、本書のスタンスとしては全く問題ないはずだ。このキャラは経営学上のリーダーの資質が欠けているからこの作品は失敗した、みたいな記述があるのだが、それとこれとは明らかに別だろうとツッコマざるを得ない。笑うところなのかどうなのか。

2012年5月23日水曜日

『対魔導学園35試験小隊 1.英雄召喚』柳実冬貴、切符



魔力を持つ人間が滅びようとしている世界―武力の頂点の座は剣から魔法、そして銃へと移り変わっていた。残存する魔力の脅威を取り締まる『異端審問官』の育成機関、通称『対魔導学園』に通う草薙タケルは、銃が全く使えず刀一本で戦う外れ者。そしてそんなタケルが率いる第35試験小隊は、またの名を『雑魚小隊』と呼ぶ、劣等生たちの寄せ集めだった。しかしある日、『魔女狩り』の資格を有する超エリートの拳銃使い・鳳桜花が入隊してくる。隊長であるタケルは、桜花たちと魔導遺産回収の任務に赴くのだが―。甦る『英雄』を地に還すのは少女の銃か、少年の剣か!?学園アクションファンタジー。
柳実冬貴は、彼がこれまでに書いた二つのシリーズを見てみれば明らかなとおり、弱い者が強い者に勝ったりだとか、少なくともその弱さを克服して活躍する、という物語を書いてきた。ライトノベルというジャンル・業界が、中高生に向けて作られた小説であるにもかかわらず、ほとんど反教育的だとすら言える白痴的な物語を大量にのさばらせている現状を見た場合、彼の描く登場人物たちの素朴な成長物語は、それだけで非常に啓蒙的であった。前作『Re: バカは世界を救えるか?』が、中二病患者の弱さを扱っていたのに対し、今回の『対魔導学園35試験小隊』は、「雑魚小隊」の面々の、社会不適合性が扱われている。「雑魚小隊」のメンバーは、個人の能力としては雑魚ではなく、むしろ優秀と言えるくらいなのであるが、その性格に問題があり、能力を成績に反映させることができない。

このような設定は、人によっては「発達障害」だとか「アスペルガー症候群」などという言葉を連想させるかもしれない。射撃の腕前は一流なのに極度のあがり症で、本番ではいつも失敗してしまう西園寺うさぎ。整備開発の腕前は一流なのに偏執狂的に狭い対象に興味を注いでしまい、他人の持ち物まで勝手に改造してしまう杉並斑鳩。そして、剣術以外に何のとりえもなく、剣のことをバカにされると見境無くキレてしまう若者である、主人公の草薙タケル。この三人の「雑魚小隊」の中に、タケルと同じくキレる若者であるヒロインの鳳桜花が入ってくることにより物語は進行するのであるが、これらのメンバー全員の「問題」が、すべて本人の意思を無視して降りかかってくる持病のようなものとして描かれているのが特筆すべき点である。彼らの抱える「問題」は、彼ら自身の思想信条から導き出されるものではなく、むしろ自分の意思ではほとんどどうにもできない「症状」なのだ。

そして本作は、この「症状」と彼らがどう向き合い、これを克服していくのかという過程が描かれる。当然、弱い者たちの共同性が描かれ、その絆によって「症状」を克服し、本来の能力を発揮し、活躍していく話になるという展開は、それ自体で重要であるし、強調しすぎてしすぎることはないと思うのだが、「症状」を持つ弱い者が、一体どういう存在であるのかを他作品と比べて考えてみることは有益だろう。たとえば最近出た西尾維新の『悲鳴伝』では、人間らしい感情をほぼ一切持たない主人公が描かれたわけであるが、人間としての機能が壊れている、という意味では、「雑魚小隊」のメンバーの諸「症状」も、『悲鳴伝』の空々空の無感情も、同じであると言える。あるいは『雨の日のアイリス』における三人のロボットが、ロボットとして描かれざるを得ない空虚化した現代の人間の表現だとすれば、彼らが人間社会から単なる労働機械としてしかみなされておらず人間性や社会性から疎外されているという意味では、やはり対魔導学園の社会に適応できず疎外されている「雑魚小隊」の面々と同じだといえる。しかし、『悲鳴伝』と『雨の日のアイリス』とが全く異なっているのは、彼らのような人間として不完全な存在と社会との距離感の描かれ方であろう。『悲鳴伝』は社会を完全に敵対的なものとして描き、唯一主人公である空々空が心を開いたのは、ヒロインという性的な対象だけだった。そして、そのヒロインを空々空から奪おうとするのもやはり社会なのであった。空々空は感情を持たないにも関わらず、感情を持つかのような振りをして社会を謀り、社会的な人間達を殺戮する。対して『雨の日のアイリス』は、同じく社会を敵対的なものとして描きながらも、三人のロボット達が自分達自身の社会を作ることによって戦う話を描いた。この二作では向いている方向がまるで逆なのである。そして、現に戦いを可能にする条件としてどちらが優れているのかは言うまでも無い。

自分の意思ではどうにもならない「症状」を、「雑魚小隊」で互いに助け合って克服してゆく、という筋道を持つ本作が、立場的に『雨の日のアイリス』に近いことは明らかであろう。この点に関しては基本的に私はこの小説を評価するが、隊長である草薙タケルが唐突に鳳桜花のことを「放ってなんておけな」くなってしまうのは解せない。この問題点は、「症状」持ち同士の連帯が生まれる大変重要なポイントに関わるものである以上、決して瑣末な「ツッコミ所」にとどまる話ではない。苦悩を媒介してつながりあう関係を描いた小説として、私は『マリア様がみてる』を名作と考えるが、本作にも一巻における祐巳と祥子のように、展開の丁寧さが求められてしかるべきであった。革命力37。

2012年5月18日金曜日

『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』石川博品、うき

八高十一組、妄想以上! 第10回えんため大賞優秀賞受賞の超感覚・学園キネマ!!

僕はレイチ。元モグラ(詩的表現、元気いっぱい に!)。 今年から第八高等学校に入学する将来のモテメン(希望込み)。っていうか適当に平和にやりつつ、好きな植物でも愛でて妄想の中で暮らしていきたかったの に、クラスメイトは異文化流モラルハザードなヤツばっか! 僕はインモラル以外食さねーっつってんだろ! とくに何なの? この幼女? ネルリ? 耳刈? せっかくの高校生活、痛いのはイヤ—!(耳だけに) 第10回えんため大賞優秀賞受賞、恐るべき超新星現る!
ソ連をモデルにしたと思しきスターリニズム的社会を舞台とした物語だと、この作品について一般的に語られているようだが、確かにそうした面は大きいものの、厳密にソ連に当てはまる設定を持っているわけではない。例えば、ヒロインであるネルリの故郷のシャーリック王国は、「地上の楽園」「ならず者国家」という言葉などが暗に仄めかしているように、北朝鮮をモデルにしている、ないしは意図的に北朝鮮を想起させようとしている。確かに北朝鮮だって共産圏だとは言えるのだが、本作では「北朝鮮」であるはずのシャーリック王国は、むしろ主人公達「共和国」の本地人のスターリニズムと相容れないものとして描かれている。

シャーリック王国をはじめとする本作の諸王国が、「共和国」の近代的国家機構に逆らう前近代的で中間集団的で「未開」な封建主義的共同体として描かれているのは明らかなのだが、ここで二つの疑問が浮上する。一つ目は、ソ連の問題をディストピア的に描くにあたって近代的スターリニズムと前近代的中間集団との対決を描くことが正当であるかどうか、という疑問である。そもそも、共産主義ないしスターリニズムは近代的なのか? という問題がある。近代的な精神とは言うまでもなくフランス革命的「自由・平等・博愛」の精神であり、作者本人が述べるような『11人いる!』のパロディとしてよりも、むしろこの近代的精神のパロディとして、「共和国」のスローガンである「自由・調和・博愛」という言葉は機能しているであろう。

さらにいま一つの疑問は、なぜ今スターリニズムの問題を描くのか? というものである。とっくの昔にソ連は解体し、反共的ディストピア小説の現在的アクチュアリティは現代日本においてほとんど無いと言っても言い過ぎではない。少し前に『蟹工船』のブームが起こったように、世の文学青年たち(私は現代の文学青年は間違いなくラノベにもエロゲーにもアニメにもマンガにも通じていると信じて疑わないが)のメンタリティはむしろ反資本主義とまではいかなくとも、反新自由主義に傾いていることは明らかであり、行き過ぎた金融取引が人間の自由を破壊している、というほぼ共通の現実認識に立っている。それに対して時代遅れの反スタを叫ぶ本作は、一体どういう問題意識のもとに(そんなものが今日本で最も優れたアイロニーを操る石川博品にあるとすればだが)描かれているのかを考えなければ、本作を正当に解釈することも、また同じことではあるが、本作の面白さを最大限に味わうことも、まったくもって不可能であろう。

この二つの疑問が提出する謎を一挙に解き明かす作者からのメッセージ(あるいはそのように見えるもの)が一つある。それは、 「このニッポンだってスターリニズムの社会と大して変わらないじゃないか」というメッセージだ。ネット右翼も、オタクも、ギャルも、自民党も、カルト宗教も、少年犯罪も、社民党も、デモも、格差も、郊外も、あれも、これも、みんながみんな、アメリカの核の傘に庇護された平和憲法にのっとった上でのエコノミックアニマル化したイエローモンキー的大活躍のもとでしか、すなわち一言で言えば戦後民主主義体制のもとでしか成立しないのであって、この戦後民主主義が産み落とした栄えあるニッポンの「空気」は、そのスノビッシュな性格から言ってスターリニズムの兄弟なのである。

こうした現実認識は、つまりいかにもな資本主義社会に見える国が、実は共産主義化・社会主義化している、という認識は、そう珍しいものではない。2007年の東京都知事選で有名になった外山恒一も、アメリカ社会が高度に資本主義的でありながらポリティカル・コレクトネスやアファーマティブ・アクションのような「リベラル」な考え方を導入し始めたことを指して、世界はむしろ「左傾化」していると説く。 また、日本の左翼的知識人の間では、もう十数年も前から、監視カメラの導入や国民総背番号制による管理の問題を代表として、日本の監視社会化を危機と捉える風潮がむしろ一般的であった。そして、スターリニズム社会を風刺したディストピア小説が必ず描くのが、他ならぬ、国民に対する監視と管理の問題なのである。

本作において、登場キャラ達がみんな異国風の名前を与えられていながら、あるいは各王国民達が自国の名前を与えられていながら、「共和国」にのみはっきりした名前がないのも示唆的だ。なぜなら、そうすることによって天皇陛下不在の「ニッポン共和国」というスターリニズム社会を想像してみることも可能になるからだ。この「ニッポン共和国」に抗う、レイチの人間の実存を、ネルリ達王国民の故郷への感情を、十一組の文化多元的共同性を、作品の中に見出してこそ、ちょいシリアスなストーリーにちょいエロ的妄想が軽快なギャグとともに挿入された不思議な文体を持つ優秀なラノベ、という全く低俗で通俗的な認識(もちろんそれが悪いわけではないが)しか持たなかった読者は、この小説の価値を二倍以上に味わうことができるだろう。革命力81。

2012年5月13日日曜日

『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。2』左京潤、戌角柾

元・勇者志望の少年ラウルと魔王の娘フィノの二人が働くマジックショップの近くに、巨大チェーン店が参入してきた。しかも、その店にはかつてラウルと共に勇者を志した少女・アイリが勤めていることが発覚し——(公式サイト
(ネタバレを含みます、ご注意下さい)

まず、作者があとがきで「今回も言いたいことはだいたい作中で書いちゃってるので特に語ることもない」と述べているところに注目したい。つまりは、この作品には明確に「言いたいこと」が、すなわちメッセージが込められているわけだ。これは「書きたいことはだいたい作中に書いた」と述べるのとは大きくことなるし、恐らくそのことに作者も自覚的だろう。なぜならば、読んでみればわかるとおり、この小説は、ファンタジー世界と現実社会の不況を混ぜ合わせることでその両者を皮肉ってパロディ化し矮小化し無害化し笑い飛ばす小説であるかのような外観を持ちながら、そのコアにはいたって素朴なドクサが埋め込まれているからだ。そのドクサとは、作者のある種の倫理観の上に成立していると言って良い。 具体的には魔王の属性を持つフィノによる、人類の文明史的な技術賛美、及び、それとワンセットで進化してきた資本主義経済への賛美に、よく表れている。人類の家電製品の技術を見るたびに感動の声を挙げ、労働とその対価である貨幣によって誰もが技術を交換・共有できる経済の仕組みを褒め、それを作った人類を殺害し食らってきた魔族の一員である自分を反省するフィノは、人類以前的な自然の形象化したキャラクターと捉えることができる。もちろん、人類・勇者側に対する魔族・魔王側が、ある種の「自然」として描かれることは珍しくない。ドラクエ4においてすでに、人間になりたくてライアンについていくホイミンのエピソードや、人間に蹂躙されるロザリーのエピソードが見られるように、凶暴な魔獣も、人と共存できるペットのような魔物も、同時に魔族の表象においては存在し得る。人類と争ったり馴致されたりするこの多様性は、自然の無規定性の表現であろう。

しかしそのフィノが賛嘆する技術と経済は、ある倫理が共有された上でしか成立しない。公正さへの意識や、社会貢献的な意識がそれである。話をわかりやすくするために、ここではまとめて「正しさ」と表現することにするが、その正しさを持たない技術と経済が、本作では悪として表現される。このテーマは一巻のときから全くブレていない。一巻では「勇者」業を営む者たちの「正しさ」のイメージを借りた汚い商売−−つまりは「正しさ」の欠けた経済が悪として登場したが、この二巻ではその汚い商売に加えて、「正しさ」のイメージを借りた汚い技術が描かれる。この技術は魔人のエネルギーを搾取することによって、つまりは「自然」を蹂躙することによって成り立っている。それに対して反抗するのが、主人公である挫折した勇者なのである。主人公は勇者であることに挫折することによって、つまり勇者という「正しさ」のイメージから遠のくことによって、より本質的な正しさを体現することができる、という逆説の内にある。

『勇しぶ』における以上の構造は、通俗的な善と悪を止揚する「意識の高さ」を持っている。それは確かなのだが、しかしこの程度の「意識の高さ」 は逆にありふれている。本来ならばフィノが賛美する「正しい資本主義」と、悪役の表現に込められた「悪い資本主義」の区別は、一体「正しい」のか、ということが問われねばならない。そして、資本主義に「悪さ」があるとするならば、それが善だの悪だのという基準を溶解させてしまうところにこそあるのではないかと問われねばならないのだ。資本主義の「悪さ」を批判する者自身が、既に堅牢にそびえ立つ資本主義のピラミッドの内部にとらわれている。自分だけは資本主義の「悪さ」の外にいて、「正しさ」だとか「正しい資本主義」を謳歌できるのだなどという都合の良い考えは妄想に過ぎないのだ。

しかし、尚その上で、本作は300ページに満たないライトノベルが、中高生の読者にもわかりやすい形で描き得る倫理の表現としては、限界に近い水準にあると思われる。 「正しさ」の通俗的なイメージを脱構築する教育的な試みとして、現在のライトノベル作品群の中でも最高峰に近いのではないか。純ラノベとしての価値とは別に、この作品が普及した場合の社会的な価値を評価せねばならない。

また、 主人公以外のもう一人の「挫折した勇者」であるアイリに焦点が当てられるが、彼女の勇者願望、言い換えれば主人公願望への愛着と、その抑圧、不全感は、涼宮ハルヒ(『涼宮ハルヒの憂鬱』の後半部分における、ハルヒの主人公願望に関する長いセリフを参照)の系列にも置くことができる。極言すれば、このハルヒ的主人公願望こそがラノベ的「中二病」の根本原因なのであり、ハルヒが「中二病」であるからこそ、昔自分自身が超能力者や未来人や宇宙人や異世界人に憧れていたこともあるキョンは、ハルヒに自己を見出すのである。またそうであるがゆえに、必然的にキョンのハルヒに対する愛情は自己愛に他ならない。『勇しぶ』においても、主人公願望を断たれても現実にそれなりに適応しているラウルと、主人公願望を断ち切れないアイリの関係性は、キョンとハルヒの関係性にとてもよく似ていて、ラウルによるアイリへの説教は、キョンによるハルヒへの説教を彷彿とさせる。当然この構図は、中二病ラノベの傑作である『AURA』の二人の佐藤においても当てはまるのである。

しかし、本作は『ハルヒ』とは違い、ラウルがアイリを説教しつつ甘やかすといった自己愛的な展開には至らない。なぜなら、正ヒロインがフィノだから、という身もふたもない理由とは別に、アイリ自身が主人公願望を抑圧して資本主義社会に適応したラウルを尊敬してしまうからだ。本来ならば、ラウルが適応してしまった資本主義社会なるものが本当に正しいのかどうかがまずチェックされなければならないのだが、その過程をオミットするドクサが作品を支配していることは最初に述べた通りである。

このように、本作はある一定の限界を持ちつつも、ラノベとしての体裁の優秀さとメッセージ性の共存という意味で極めて稀な名作だと言い得る。特にアイリに焦点が当てられたことで、ラノベが一般的に具象化している主人公願望と、その挫折を乗りこえるための社会性というメッセージがとても明確になり、一巻に比べて完成度を大きく増している。革命力87。