2012年5月18日金曜日

『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』石川博品、うき

八高十一組、妄想以上! 第10回えんため大賞優秀賞受賞の超感覚・学園キネマ!!

僕はレイチ。元モグラ(詩的表現、元気いっぱい に!)。 今年から第八高等学校に入学する将来のモテメン(希望込み)。っていうか適当に平和にやりつつ、好きな植物でも愛でて妄想の中で暮らしていきたかったの に、クラスメイトは異文化流モラルハザードなヤツばっか! 僕はインモラル以外食さねーっつってんだろ! とくに何なの? この幼女? ネルリ? 耳刈? せっかくの高校生活、痛いのはイヤ—!(耳だけに) 第10回えんため大賞優秀賞受賞、恐るべき超新星現る!
ソ連をモデルにしたと思しきスターリニズム的社会を舞台とした物語だと、この作品について一般的に語られているようだが、確かにそうした面は大きいものの、厳密にソ連に当てはまる設定を持っているわけではない。例えば、ヒロインであるネルリの故郷のシャーリック王国は、「地上の楽園」「ならず者国家」という言葉などが暗に仄めかしているように、北朝鮮をモデルにしている、ないしは意図的に北朝鮮を想起させようとしている。確かに北朝鮮だって共産圏だとは言えるのだが、本作では「北朝鮮」であるはずのシャーリック王国は、むしろ主人公達「共和国」の本地人のスターリニズムと相容れないものとして描かれている。

シャーリック王国をはじめとする本作の諸王国が、「共和国」の近代的国家機構に逆らう前近代的で中間集団的で「未開」な封建主義的共同体として描かれているのは明らかなのだが、ここで二つの疑問が浮上する。一つ目は、ソ連の問題をディストピア的に描くにあたって近代的スターリニズムと前近代的中間集団との対決を描くことが正当であるかどうか、という疑問である。そもそも、共産主義ないしスターリニズムは近代的なのか? という問題がある。近代的な精神とは言うまでもなくフランス革命的「自由・平等・博愛」の精神であり、作者本人が述べるような『11人いる!』のパロディとしてよりも、むしろこの近代的精神のパロディとして、「共和国」のスローガンである「自由・調和・博愛」という言葉は機能しているであろう。

さらにいま一つの疑問は、なぜ今スターリニズムの問題を描くのか? というものである。とっくの昔にソ連は解体し、反共的ディストピア小説の現在的アクチュアリティは現代日本においてほとんど無いと言っても言い過ぎではない。少し前に『蟹工船』のブームが起こったように、世の文学青年たち(私は現代の文学青年は間違いなくラノベにもエロゲーにもアニメにもマンガにも通じていると信じて疑わないが)のメンタリティはむしろ反資本主義とまではいかなくとも、反新自由主義に傾いていることは明らかであり、行き過ぎた金融取引が人間の自由を破壊している、というほぼ共通の現実認識に立っている。それに対して時代遅れの反スタを叫ぶ本作は、一体どういう問題意識のもとに(そんなものが今日本で最も優れたアイロニーを操る石川博品にあるとすればだが)描かれているのかを考えなければ、本作を正当に解釈することも、また同じことではあるが、本作の面白さを最大限に味わうことも、まったくもって不可能であろう。

この二つの疑問が提出する謎を一挙に解き明かす作者からのメッセージ(あるいはそのように見えるもの)が一つある。それは、 「このニッポンだってスターリニズムの社会と大して変わらないじゃないか」というメッセージだ。ネット右翼も、オタクも、ギャルも、自民党も、カルト宗教も、少年犯罪も、社民党も、デモも、格差も、郊外も、あれも、これも、みんながみんな、アメリカの核の傘に庇護された平和憲法にのっとった上でのエコノミックアニマル化したイエローモンキー的大活躍のもとでしか、すなわち一言で言えば戦後民主主義体制のもとでしか成立しないのであって、この戦後民主主義が産み落とした栄えあるニッポンの「空気」は、そのスノビッシュな性格から言ってスターリニズムの兄弟なのである。

こうした現実認識は、つまりいかにもな資本主義社会に見える国が、実は共産主義化・社会主義化している、という認識は、そう珍しいものではない。2007年の東京都知事選で有名になった外山恒一も、アメリカ社会が高度に資本主義的でありながらポリティカル・コレクトネスやアファーマティブ・アクションのような「リベラル」な考え方を導入し始めたことを指して、世界はむしろ「左傾化」していると説く。 また、日本の左翼的知識人の間では、もう十数年も前から、監視カメラの導入や国民総背番号制による管理の問題を代表として、日本の監視社会化を危機と捉える風潮がむしろ一般的であった。そして、スターリニズム社会を風刺したディストピア小説が必ず描くのが、他ならぬ、国民に対する監視と管理の問題なのである。

本作において、登場キャラ達がみんな異国風の名前を与えられていながら、あるいは各王国民達が自国の名前を与えられていながら、「共和国」にのみはっきりした名前がないのも示唆的だ。なぜなら、そうすることによって天皇陛下不在の「ニッポン共和国」というスターリニズム社会を想像してみることも可能になるからだ。この「ニッポン共和国」に抗う、レイチの人間の実存を、ネルリ達王国民の故郷への感情を、十一組の文化多元的共同性を、作品の中に見出してこそ、ちょいシリアスなストーリーにちょいエロ的妄想が軽快なギャグとともに挿入された不思議な文体を持つ優秀なラノベ、という全く低俗で通俗的な認識(もちろんそれが悪いわけではないが)しか持たなかった読者は、この小説の価値を二倍以上に味わうことができるだろう。革命力81。

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